ヘン・ウラァド・ヴァ・ハダイ

~ウェールズ国歌~

courtesy of Photolibrary Wales
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国花があって、国旗があるのだから、

ウェールズにはもちろん、国歌もあります。

『ヘン・ウラァド・ヴァ・ハダイ 

   Hen Wlad Fy Nhadau 』、

英語では Land of My Fathers

日本語では『わが父祖の地』といいます。

今回はこの歌についてお話ししましょう。

 

時は1856年、舞台は南ウェールズの

ロンダ渓谷にある町、ポンティプリーズ。

22歳のジェームス・ジェームスは地元のパブで

ハープを弾いて生計を立てている

若き音楽家でした。

1月のうららかなある日、彼はロンダ川のせせらぎに

耳を傾けながら、散策を楽しんでいました。

すると美しいメロディーが沸き起こってきたのです。

Handwritten sheet music of Welsh National Anthem by James James / courtesy of National Library Wales                 
Handwritten sheet music of Welsh National Anthem by James James / courtesy of National Library Wales                 

家に帰ったジェームスは父のエヴァンに

この旋律を聞かせ、

なにか歌詞をつけてほしいと頼みます。

詩作を趣味としていたエヴァンはさっそく

とりかかり、その日のうちに1番と

 2番を、 翌日には3番の歌詞を書きあげ、

『グラン・ロンダGlan Rhondda 

 (ロンダのほとり)という

タイトルをつけました。


23週間後、同じくロンダ渓谷にある

マエステッグという町の教会で

行われたコンサートで

この曲は初めて人前で披露されます。

それを聞いて感動し、楽譜がほしいと申し出た女性がいました。

ビクトリア女王のお抱えハーピストの義妹、ミス・マイルズです。

そこでこの『グラン・ロンダ』は、町の有名人である

“ミス・マイルズのお気に入り”として

ロンダ渓谷を中心に広まっていきました。

 

2年後の1858年、北ウェールズのスランゴスレンで

開かれたナショナル・アイステッズヴォドで、

未発表のウェールズ楽曲集のコンクールが行われました。

優勝者は、『グラン・ロンダ』を歌ったトーマス・ルウェリン。

入賞は逃したものの、別の人物もこの曲を歌っていました。

このことから、すでにこの年には『グラン・ロンダ』が

かなりの人気を博していたことがうかがえます。

© Pontypridd Museum
© Pontypridd Museum

そして、この歌がさらに広まったのは、コンクールの審査員に

歌手のジョン・オーウェンがいたからでした。

彼もこの曲に感動し、自身が1860年に出版した

『珠玉のウェールズ・メロディー』にその楽譜を加えたのです。

このときはじめて、この歌は

『ヘン・ウラァド・ヴァ・ハダイ』と名づけられました。

 

楽曲集の売れ行きは好調で、

オワイン自身もコンサートで頻繁に歌ったため、

またたく間にこの歌はウェールズ全土に広まりました。

1865年からはナショナル・アイステッズヴォドで

歌われるようになり、1880年には大会歌に認定。

ほかにもさまざまな愛国的な集まりで歌われ、

やがてウェールズ人の間では国歌として扱われるようになります。

Eisteddfod / courtesy of Photolibrary Wales                       
Eisteddfod / courtesy of Photolibrary Wales                       

それが対外的にも認められたのは、もしかしたら、

1887年にロイヤル・アルバート・ホールで開かれた

ナショナル・アイステッズヴォドでの出来事が

きっかけなのかもしれません。

それまで理由をつけて臨席をサボっていた

エドワード皇太子でしたが、

ロンドンで行われるとあっては、

逃げるわけにはいきませんでした。

皇太子が到着したとき、当代一の人気歌手だった

ロバート・リースは観衆とともに

『ゴッド・セーヴ・ザ・プリンス・オブ・ウェールズ』を

歌って迎えました。

そしてセレモニーの終了時には、

『ヘン・ウラァド・ヴァ・ハダイ』を歌うために

同じく観衆とともに、立ちあがったのです。

エドワード皇太子と家族もつい起立してしまい、

歌が合唱されている間、ずっと立ち続けていました。

そう、国歌に敬意を払うように。

イングランド内でもウェールズ国歌として認められたからなのか、

ウェールズ語の歌ではじめてレコード化されたのは

この『ヘン・ウラァド・ヴァ・ハダイ』なんですよ。

1899311日、ロンドンのグラモフォン社でレコーディングされました。

片面のみ7インチのレコードで117秒の演奏時間でした。

 

残念ながら、いまにいたるまで、この『ヘン・ウラァド・ヴァ・ハダイ』は

ウェールズ国歌として公式に法令化されてはいません。

でも、地域の小さな集まりでも全国大会でも国際イベントでも、

この歌は大合唱され、人々の心をひとつにしています。

きっと、その愛国的な歌詞とサビのドラマティックなメロディーが、

ウェールズ人としての誇りを爆発させてくれるからなんでしょうね。

 

さぁ、お待たせしました。これが、その国歌です。

英語と日本語の訳もつけておきますね。

Mae hen wlad fy nhadau yn annwyl i mi,

The old land of my fathers is dear to me,

私の父祖の古く、いとしい国よ 

Gwlad beirdd a chantorion, enwogion o fri;

Land of bards and singers, famous men of renown;

詩人と歌人と伝説の人びとの国よ 

Ei gwrol ryfelwyr, gwladgarwyr tra mâd,

Her brave warriors, very splendid patriots,

祖国の勇敢な戦士、亡き愛国の士よ 

Dros ryddid collasant eu gwaed.

For freedom shed their blood.

自由のため、あなたたちの血は流された 

Gwlad, gwlad, pleidiol wyf i'm gwlad.

Nation  Nation, I am faithful to my Nation.

私の国よ、私は祖国を愛す

Tra môr yn fur i'r bur hoff bau,

While the sea is a wall to the pure, most loved land,

海がこの美しい国を城壁となって守る限り

O bydded i'r hen iaith barhau.

O may the old language endure.

いにしえの言葉の永久に栄えんことを

 

courtesy of Photolibrary Wales
courtesy of Photolibrary Wales

 

1930723日、ポンティプリーズの

 アニサンハラッド公園に

作詞作曲者であるジェームス親子の

 記念碑が立てられました。

銘にはこう刻まれています。

  

「祖国への深い愛に導かれ、

 音楽と詩を結びつけ、

 ウェールズに国歌を与えた

 ポンティプリーズの父と子、

 エヴァン・ジェームスと

 ジェームス・ジェームスを記念して」

 

 

 

 

 

 

 

 <参考>

「ウェールズ国歌を歌ってみたい!」と

思われませんか?

カタカナ読みがついた楽譜は、こちら↓をどうぞ!

ウェールズ国歌.pdf
PDFファイル 76.7 KB
courtesy of Photolibrary Wales
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<蛇足①>

『ヘン・ウラァド・ヴァ・ハダイ』は絶対に

ウェールズ語で歌われなければなりません。

でもウェールズ語の項でお話したように、

話せる人は全体の約20%。

つまり、歌詞をきちんと覚えていない人って、

案外多いのです。

すると、どうするか? 口パクです。

サビの部分、「Gwlad Gwlad」から後の部分だけを

覚えて、それまでの導入部はムニャムニャムニャ。

歌う機会は多くてもソロで歌うことはまずないので、

これでけっこうごまかせられます(苦笑)。

でも、ラグビー応援にスタジアムに行ったときなどは、ご注意!

テレビカメラが観客席をズームアップするときがあり、

そんなときにムニャムニャしているのが大映しになると

赤っ恥をかいてしまいます。

このようなことがないよう、BBCなどには、

“音で国歌を覚えよう”なんてレクチャーページもあるんですよ。

 

もっとトリヴィア

実は、この口パク&ムニヤムニャで失態を演じた人物がいます。

1993年にジョン・メイジャー政権でウェールズ担当大臣になった

保守党の国会議員、ジョン・レッドウッドです。

ウェールズ人ではなく選挙区もイングランド内だった彼は、

まったくウェールズ国歌を知りませんでした。

ある行事の際にオドオドと口を動かしている彼のアップが

テレビに映し出されてしまったのです。

大勢のウェールズ人が見守るなか、これは致命的でした。

一方、後任のウィリアム・ヘイグは、この教訓をもとに、うまく立ち回りました。

ウェールズ担当大臣に任命されるや否や、

国歌が歌えるように指導してくれるウェールズ人を探したのです。

個人レッスンの成果はすばらしいものでした。

だって、その先生は後にヘイグ夫人にもなったのですもの。